《報徳思想を芸術論として読む》
《横穴墓の茶室》
2021
かけがわ茶エンナーレ2020+1

二宮尊徳は、貧しい生い立ちや、度重なる災害、士族の財政改革、農村復興などの経験や、神儒仏の教えから、宇宙、自然、人為の全てを一つの円からはじまるとする独自の思想体系を作った。
報徳の「勤勉」は、明治から戦前にかけ近代国家の原動力として読み替えられ便利に使われてきたが、報徳思想をあえて「芸術論」として読み直すことで、便利に使えない部分の報徳思想に着目しようと試みる。
実践のひとつとして、南郷地区の開発で失われた横穴墓を河合弥八の残した離れの住居と融合させ「横穴墓の茶室」をつくった。

報徳思想を芸術論として読む
深澤孝史

 今回私は、二宮尊徳(金次郎)の経済倫理思想である報徳を芸術論として読んでみるという実験をしてみる。報徳は1冊の本にまとまっているものではなく、尊徳の実践と彼の残した書物、弟子たちが書き記した本と実践の総体といえる。なので尊徳が没して150年以上経っている現在、報徳の思想自体もさまざまな変遷がある。その全部を追うことは私には到底できないが、主に尊徳の生前の江戸後期の時代と明治から戦前にかけての流れを追ってみながらやってみたい。報徳思想は尊徳が最初に考案した時よりも、日本の近代化のためにあまりに便利に使われすぎた歴史がある。尊徳も合理的性格の人物であっただろうが、人間中心主義的で自然を支配するような視点ではなく、あくまで自然(天道)の中に人の営み(人道)があり、人の営みは徳を持って働くことでなんとか自然の中で持続できるものであるという捉え方をしている。今回は尊徳の合理性ではない部分に着目していく。

 そもそも一体なぜこんなことをしようと思ったかというと、1つは大日本報徳社の五代目社長の河井弥八の邸宅跡で美術の展示をすることになったからだ。この場所は現在は掛川市南郷地域生涯学習センターとして住民たちの憩いの場所になっている。敷地内には邸宅の一部である蔵と離れの別棟が残されており、貸館や資料館、茶室として活用されている。河井弥八は明治末期から戦前戦後にかけて活躍した人で、官僚、昭和天皇・皇后の側近を経て最終的に参議院議長になった人だ。掛川の豪農であった岡田佐平治が報徳を学び明治8年に遠江報徳社を設立し、それが大日本報徳社の基礎となった。静岡遠州地方は尊徳の弟子たちが報徳社を創設したことで、産業が発達したとも言われており、河井弥八はその代表的人物の1人である。戦前戦後にかけて河井弥八のさまざまな功績も伝わっているが、その詳細については生涯学習センターに併設されている河井弥八記念館に立寄って見学していただきたい。今回私は、河井弥八邸宅跡地で、近代報徳と向き合い直す試みをしてみようと考えている。私の報徳美術の実践として、2021年10月に「弥八庵」としてリニューアルした旧河合邸の離れの家で《横穴墓の茶室》という作品を制作する。南郷地区の多くは田畑であったが、戦後の農地改革や人口増加で、現在ではほとんどの土地が住宅となっている。新幹線の駅の誘致、区画整理、宅地造成、高速インターの整備などで戦後から現在にかけて目まぐるしいスピードで開発が進められてきた場所でもある。一方そうした開発の過程の副産物としてさまざまな古代の遺跡が数多く出土した。その1つである古墳時代の横穴墓に今回着目した。掛川市役所は別名「王家の谷」と呼ばれ、日本最大級の規模を誇っていた宇洞ヶ谷横穴の跡に建てられていることで知られているが、南郷地区も数多くの横穴が見つかっては埋められたり削られていった場所だ。私は過去この場所にあった人の営みと現在の営みを対置させる茶室を作ってみようと考えた。それは尊徳の考えた天道と人道の対置とも関係すると思う。
 
 「日本の名著26 二宮尊徳」によれば、二宮金次郎は、天明7年(1787)に相模国足柄上郡栢山村の農家の長男として生まれる。寛政3年(1791)、数え年5歳の時に酒匂川の洪水が発生し大口の堤が決壊、数か村が流れるほどの災害で、父である利右衛門の田畑も消失する。金次郎は実家の経済的な復興から始まり、小田原藩家老の服部十郎兵衛の服部家の家政改革、小田原藩下級藩士に向けた低金利の貸付制度と倫理的規範項目となる五条講(仁、義、礼、智、信の五つの徳の実践によって信頼できる賃借関係を築く)、小田原藩の年貢米の枡の統一など実績を上げたのち、藩主大久保家の分家である宇津家の財政と農村の立て直しを命じられ、現在の栃木県真岡市である下野国桜町に赴任する。農村復興は考案した制度の折り合いが合わず農民の反対にあい、尊徳は挫折して失踪。成田山の不動尊に21日間の願掛け断食行をしていたところを発見され、その熱意が大久保家、宇津家、農民らに届いたのか、その後、農村復興事業は順調に進み、年貢の出納実数も倍近くとなり、桜町復興の成功は「報徳仕法」として評判になった。しかし、その成功は小田原藩及び二宮尊徳からの莫大な支出あっての成功でもあった。桜町の復興と同時に青木村の復興支援、幕吏への登用もされるがどれも大きな功績は挙げられず、晩年は日光御神領村々の仕法を命じられるが、計画途中に病に倒れ70年の生涯を終える。

  尊徳の報徳思想は彼の残した発言や文章などから、彼の死後に「至誠」「勤労」「分度」「推譲」などと整理され(他に違う整理もある)、主に勤労倹約が説かれた。元々の尊徳自身の志向も合理的で、プラグマティックな性格が強い。弟子の福住正兄が著した「二宮翁夜話」でも仏の道である「悟道」を理念的すぎて使えない考えだと一蹴する場面が度々登場する。尊徳は報徳が使える思想であることを一番重視していたのであろう。戦前の日本は、そうした報徳の思想を合理性と勤勉の考えに特化させて、資本主義近代国家の建設にうまく利用した歴史がある。マックス・ヴェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著書にて、資本主義を発生駆動させた精神は、非合理的なプロテスタントの禁欲的倫理感であると論じている。ノンフィクションライターの礫川全次は、日本にはプロテスタントの禁欲ほどの精神は誕生しなかったが、明治になってその代替物として報徳は使われたのではないかという趣旨の仮説を書いている。もともと尊徳の考案した報徳仕法は、彼の生前は関東と静岡、福島に知られるのみで全国的な影響を持ったものではなかった。二宮尊徳の思想が注目され始めたのは明治に入ってからで、門人らによって著述された「二宮翁夜話」、「報徳記」が宮内省、農商務省などに頒布され、明治24年に幸田露伴による小説「二宮尊徳翁」が著され、今に続く薪を背負った勤勉少年のイメージが確立。明治27年に内村鑑三が「代表的日本人」に尊徳を取り上げ、その勤勉の姿勢に、彼にはピューリタンの血が入っていると評した。明治政府から近代国家を建設に必要だった合理主義的な理想像として再評価される。国定教科書制度が明治36年に確立すると翌年から修身の教科書に二宮金次郎が登場し、真面目で勤勉なイメージとしての二宮像が日本中に広まっていった。

 近代報徳の行きすぎた勤労重視は、尊徳が目指した宇宙と自然と人間を表していた一つの円を近視眼的に一点のみ見るようにさせてしまったのだろうか。そうした態度へ警鐘を鳴らした人物として、ここでもう一人、宮沢賢治を登場させたい。明治後期に生まれ大正から昭和のはじめにかけて活動した彼は尊徳と同じように農業を自身の本性とした人物だった。尊徳は役人だったが、賢治は詩人であった。宮沢賢治は教員時代の大正末に農学校での講義を元に「農民芸術概論」をまとめた。賢治は、近代に入り、農業から芸術や宗教が切り離され、美や宗教が 売り物になってしまったことを批判し、農民の生活や労働に宗教と芸術を取り戻そうと宣言した。これは賢治なりの近代報徳思想への抵抗とも読める。賢治は近代資本主義によって近眼的な目になってしまった人間に五感を取り戻そうとした。
 尊徳は「三才報徳金毛録」という自身の思想をまとめた書物を天保5年(1834)に完成させた。三才とは天・地・人のことである。この書物で尊徳は、正円を太極の図とし、宇宙万物の生々発展は全て太極をその根源とし、天と地がわかれず、陰と陽の対立がなかった時は、混沌とした状態で、まるで鶏卵の中身のように形状が定かでなかった、と述べた。この太極から自然の動きである天道も人の作為である人道も分岐・対立していき、さまざまな形に分割された円を元に論じられていく。
 その中の一つに「田徳が人倫を扶助するの解」という章では、田圃が円の中心に書かれ、中心から衆民、財宝、交友、諸芸、車馬、万器、主君、父母、自己、妻妾、子孫、眷属と派生している図が紹介されている。根源には無田があり、田があるから生命が生まれ、その恩恵を受け君子は君子でいることができ、父母も子孫も繁栄し、財宝の価値が示せ、友人としての信義、諸々の芸術も芸術として存在することができるとした。農業が全ての軸となり、技術と文化と国家が生まれると説いたのが尊徳の人道であった。このように見ていくと、実は尊徳の報徳の基礎と宮沢賢治の農民芸術概論は重視している視点は違うが、どちらも農業による総合的な観点で、人の道を捉えている。

 尊徳も人道は時代によって変わると述べているように、現代の報徳社の方々が唱える報徳思想というと、気候変動の問題や、いわゆる持続可能な循環型の社会を、尊徳が論じる「人道」とみなして考え直すという見方がスタンダードになっている。大日本報徳社の現社長の鷲山恭彦は、「相対する2つの極がきりきりと切り結んで生まれる創造的接点の実践こそが、あらゆる問題解決の原点になるのです。そしてその根本には、万象具徳、以徳報徳の考え方があります」と大日本報徳社ホームページの挨拶で述べている。この言葉で想起されるのは、岡本太郎が戦後に提唱した独自の芸術論である「対極主義」である。対極主義とは、対立する二つの要素を和解させるのではなく、対立させたまま共存させることを目的とする態度だ。岡本太郎は、無機的要素の再構成である合理主義的な表現として抽象絵画を、ダダイズムやシュールレアリスムのような態度を非合理主義的な表現として捉えた。抽象絵画はアカデミックな世界に閉じこもり、シュールレアリスムは夢に閉じこもるのでどちらを探究しても虚しさが残る。矛盾、対立する両者のいいところをとって合体させたり、妥協折衷して解決するのではなく、矛盾・対立したものを対立させたまま、深淵を絶望的に深め、緊張状態に置くことを主張した。岡本太郎のいう対極は尊徳の大極に通じる。流石に現代報徳は、経済的な課題解決的思考を捨てずにいるが、報徳を芸術論として読むことは、天道と人道の対立した状態で立ち止まり、大極自体を捉える感性を持つことなのではないだろうか。

 報徳を合理的な価値観に偏って利用した日本の近代化の歴史から切り離して考え、便利には使おうとせず、立ち止まる。報徳をツールとしてではなく目的として捉える。尊徳が考えた宇宙の始源である大極という全体性の考えと、大極を一円の図形として捉えそれをさまざまな形で対立・分割することで宇宙や自然、人間の活動や精神捉えようとした尊徳の思想の基本を重視してみたい。尊徳の活動していた時代には大量生産・大量消費もないし、ましてや資本主義社会ではない。宮沢賢治にしても岡本太郎にしても、便利に使ったり解決したりする一歩手前でたちどまって考えている。尊徳自身も報徳仕法のように便利に使える方法の手前には、宇宙の様々な事象の混沌と対立について立ち止まって考えている。そして尊徳の根源的な体験として災害がある。災害を天道の必然として捉え、その上で人間の儚い営みを人道として対置している。尊徳は桜町の復興の際も自身の報徳仕法はうまくいかず、最終的に不動尊にひたすら祈りを捧げている。おそらく報徳を芸術論として読むということは、天道と人道の両面を同時に表すという挑戦である。