TITLE: New Town My Home Teater
YEAR: 2019
のせでんアートライン2019

光風台の空き家となっている一戸建てを、住民とともに、ニュータウンのための映画館へと変貌させていく。上映プログラムの計画や、映画館のあり方や環境づくり、光風台のプライベートムービーやホームビデオのアーカイブ、新作映画の制作など、映画館を作るプロセスを、様々な住民と共有する。その活動を通じて、ニュータウン以前も含んだ場の歴史や、生活者の営みに通底する他者へのまなざしを具現化し、映画館に集う人々とともに、生業が外に存在する住宅街で、人々が生き続けるための「信仰」を顕現することを試みる。

TITLE: 信仰住宅地
YEAR: 2019
上映時間 68分

とある鉱山夫の霊とその霊を無縁仏として祀った一人の老婆のために

今回、能勢電鉄の100周年事業で始まった「のせでんアートライン」に参加させていただくことになり、私は地域の信仰とニュータウンの開発との関係についての映画を制作しようと考えました。というのも信仰と能勢電鉄とニュータウンは切っても切れない関係にあるからです。それらはだんだん見えにくくなっていますが今も脈々と続き、むしろ地域の信仰はニュータウンと様々な形で影響しあっています。その変遷をたどることで現在の信仰について考えるための映画を撮りたいと思いました。

能勢電鉄は、妙見山の参詣者の輸送のために大正2年に現在の川西能勢口から一ノ鳥居駅間で営業を開始、大正12年に妙見口駅まで開通しました。西の身延山と呼ばれるほどで、昭和のはじめ頃までは白装束姿の参詣者の方々もたくさんいたそうです。能勢電鉄は妙見山のためにできた鉄道であり、元来信仰と切り離すことができない鉄道です。

妙見山の由来は諸説あります。行基開基説、清和源氏の祖である多田満仲が道教の最高神であり北極星を神格化した鎮宅霊符神を妙見山に祀ったという説など様々ですが、満仲の子孫である能勢頼次が日蓮宗に帰依し、現在の妙見信仰になっていき、18世紀後半には一般に開放され、現在のような観光と参拝の形になりました。妙見信仰の他にも満仲が建立した高代寺、満仲のひ孫である源頼国が建立したとされる吉川八幡神社などに囲まれています。また戦国時代に多く掘られた逆修仏、キリシタン大名高山右近の生誕地など、豊能町は多様な信仰にあふれています。

そもそも多田満仲自身がこの地を居城に決めたきっかけは豊富な鉱物資源があったからとも言われ、多田銀銅山の名前が知れ渡っています。鉱山には採掘のために掘り進められれた間歩と呼ばれる坑道がたくさんあり、鉱山を切り開いて作られた住宅地であるこの光風台の下にも多くの間歩が今も残っています。まさに私たちは鉱脈の上に住んでいるのです。この地の信仰は鉱山によって始まったと言えるのではないかと僕は思っています。

この映画は、とある鉱山夫の霊とその霊を無縁仏として祀った一人の老婆のために作ります。

光風台駅すぐ近く、2丁目の端の初谷川沿いに天狗岩という大きな鉱山があり、古くから鉱山や川の安全祈願のために高代寺の分社である「青龍大権現」が祀られていました。

昭和初期、妙見口駅で売店を営む老婆の夢枕に、天狗岩の鉱山夫の霊が現れたそうです。自身もふるさとを離れ、四国から嫁いできた老婆は、ふるさとに帰れなかった鉱山夫に思いを馳せ、その供養のために無縁仏を天狗岩にお祀りしたそうです。しかし、今年の9月に100年ほど天狗岩に祀られていた無縁仏は、この地を離れ、管理されている方の家の敷地に移動することになりました。天狗岩の無縁さんは光風台を離れていきました。光風台を含む豊能町のニュータウンは40年以上前にふるさとを離れて越してきた人々の町です。今こそ光風台と天狗岩の無縁さんとをもう一度結びつける意味があるのではないかと僕は思っています。

最初にこの町に家を建て越して来た第一世代の多くは80代となりました。その第一世代の人たちが、光風台を単なるニュータウンで終わらせず40年かけて、それまでの信仰と歴史と自然とニュータウンの暮らしを結びつけてきました。それは能勢の宗教者との協働でもありました。その恩恵を受けて僕らは今ここにいます。彼らの営みに敬意を込めて、この町を「信仰住宅地」と呼びたいと思います。

監督 深澤孝史

光風台マイホームシアターへようこそ

光風台マイホームシアターは、のせでん沿線のニュータウンである光風台の空き家を使った 映画館です。住民の皆さんのホームビデオや自作映像を収集、保管し、上映しています。

また同時に、豊能町のニュータウンと信仰の関係をテーマにした映画も制作しており映画制作に参加することもできます。ホームビデオを見たり、地域のことを知ったり、映画を制作したり、誰かと出会ったり、それぞれの形でマイホームシアターをお楽しみください。

光風台マイホームシアターの部屋紹介

光風台マイホームシアターは「劇場」、「映画制作室」、「監督住居」、「ダイニングキッチン」の4つの部屋に分かれています。

  • 劇場

住民の方々から集めたホームビデオなどを上映する劇場。他にもアイデアがあれば使い方が変わっていくかもしれません。会期末の11月23日には新作映画が上映されます。

  • 映画制作室

11月23日の上映に向けて、新作映画を制作するための部屋です。地域の歴史資料を集めたり、信仰や土地開発の変遷について映像を撮影したりしながら、途中経過を展示しています。

また、お預かりしたホームビデオのデジタルアーカイブも行っています。

  • ダイニングキッチン

来場者の皆さんがお話ししたりくつろいだりできる部屋です。たまに監督がご飯を食べたりもします。

  • 監督住居

マイホームシアターはその名の通り、監督の住居としても使われています。2階が寝室です。

(2階への立ち入りは基本的にご遠慮いただいております。)

マイホームシアター

ニュータウンと信仰は表向きは断絶しているように見える。新しい土地で個人の自由を謳歌するための一戸建てマイホームと、土地の起源に由来するような信仰はもともと反りが合わないイメージがある。何百何千年と続く信仰の思考と、現在性に特化している現代人の思考にはギャップがある。また明治以降、国家神道の成立背景もあり、信仰や宗教の問題はより個人的なものになっていき、共に語るということも少ない。

ニュータウンと信仰、この2つを媒介する何かが必要だ。例えばこの地域で妙見山へハイキングや、マルシェやバーベキューを企画するように。

そこで出てきたアイデアが映画館を作ることだった。光風台も住民の高齢化とともに空き家が増加している。光風台の空き家を借りてそこを地域の映画館として開いてみる。上映する映像は住民のホームビデオはどうだろう。ホームビデオはこの地域の個人史を探るきっかけにもなるだろう。マイホームを建ててそこに暮らすという生活も1つの信仰と言えるかもしれない。

能勢電鉄とニュータウン開発

能勢電鉄(以下能勢電)は明治41(1908)年に能勢電気軌道株式会社として、妙見山への参詣者の輸送を目的に創立した鉄道会社である。妙見山は現在、兵庫県川西市と大阪府豊能町、能勢町の境に位置している。

大正2(1913)年に能勢口駅(現川西能勢口駅)から一の鳥居駅間が開通、大正12(1923)年に一の鳥居駅から妙見駅(現妙見口駅)の営業を開始した。昭和35(1960)年には黒川から出発するケーブルカーの運行も開始した。

戦後日本は昭和30年頃より高度経済成長を迎え、日本のニュータウン計画もその頃より始まったとされる。

能勢電沿線の山間部も新興住宅地として開発され、妙見口駅のある吉川がもともとある集落であり、隣接した保原山(ほうぼらやま)と呼ばれていた地域にときわ台、光風台、東ときわ台、新光風台(新光風台だけはガウナイ(郷内)と呼ばれていた地区であった)が続いて開発された。

昭和43(1968)年に、ときわ台駅営業開始とともにときわ台住宅入居も開始。

昭和50年(1975)年光風台入居開始、昭和53(1978)年には光風台駅が営業開始。

昭和56(1981)年には東ときわ台、昭和63(1988)年には新光風台竣工と、妙見口駅がある吉川地区のすぐ南隣に位置する山林地帯は20年の間にベッドタウンとして切り開かれていった。昭和53(1978)年には、3万人もの人が住むことが計画された日生ニュータウンと繋がる日生線も開通した。

ニュータウン開発とともに能勢電鉄の役割は参拝者のための路線というだけではなく、朝早く出発し、終電近くで家に帰るサラリーマンの重要な交通手段という大きな目的も同時に備わっていった。

またそうした時代背景とともに地域と信仰の結びつきも変化していった。

天狗鉱山

能勢地帯、特に猪名川のあたりは多田銀山と呼ばれ、銀や銅、鉛がそこら中の山から取れ、  今でも多くの人の手で掘った坑道である間歩が至る所で確認できる。

古くは東大寺の大仏の材料に使われたという伝説も伝わっているが定かではない。

平安時代(1037年)には、摂津国採銅所が置かれ、摂津の能勢から初めて銅が献じられたという記述があり、それがこの地域で確認できる最古の文献である。

能勢地域全体に鉱脈は広がるが、現在の光風台駅あたり一帯も天狗坑という採掘場であった。主に明治期に採掘が行われ、記録によると昭和17年まで続いたとのことである。まさにニュータウンの真下に坑道が掘られ、それが今も現存している。

天狗鉱山の岩山の上には祠が建立されこの神様は高代寺の分社とされ青龍大権現と呼ばれていた。おそらく初谷川の神様でもあるのだろう。光風台2丁目の住宅地の端を抜けるとすぐに辿り着ける場所にある。この青龍さんをお守りされている方がお参りに行かれたときちょうど、蛇が脱皮したての状態で祠の中に佇んでいたこともあったそうだ。青龍さんの化身がお姿を見せてくれたと、抜け殻をとうちに持って帰ったがいつの間にかなくなってしまったという。

また昭和50年代のはじめ頃、光風台駅開業を目指し、周辺のトンネル工事が進められたが、事故が多発し、トンネル工事は難行していた。そこで能勢電鉄は天狗岩の祠をお守りされている方と高代寺の住職に相談し、ご祈祷を上げてもらい、天狗岩の祠の前に3つの鳥居を建立した。

しかし、その鳥居があった場所には今は家が建ち、鳥居は取り壊されてしまった。2019年の9月には、清流大権現のお性根が抜かれ、守主の屋敷神となった。100年以上続いたであろう天狗岩の神様がこの場所からいなくなった。

無縁仏とニュータウンの空き家たち

天狗岩の祠の隣には、鉱山夫の無縁仏を供養するもう1つの祠が安置されていた。この無縁さんは、明治時代の頭に生まれたとある老婆が祀ったものだった。
まだ能勢電鉄が一の鳥居駅までの稼働だった頃、その老婆は一の鳥居駅で売店を営んでいた。
終着駅が妙見口駅まで延伸されたことで、彼女は住居ごと売店を妙見口駅に移転した。
それからしばらくして、老婆の夢枕に天狗岩の鉱山夫の霊が顕れた。自身も四国からやってきた老婆は、ふるさとに帰れず若くして見知らぬ土地をさまよう鉱夫の霊を憐れんだ。そして無縁仏を供養する碑を天狗岩の祠の側に建てた。昭和40年代の頭まで村の人たちとともに年に一度、供養のお祭りを天狗岩の川下の広場で開いていたそうだ。今は、お守りされている家族の方だけで続けられている。天狗岩の神様と無縁仏は2019年の9月に性根が抜かれ、その方の屋敷神になった。

光風台も造成され、45年が経った。昭和の終わりから平成にかけて、その時代に理想とした楽園がここにはある。多くの住民がふるさとを離れ、この地に深い繋がりを築き、新たな生活をはじめた。しかし、入居第一世代の方々の多くが80代になる今、空き家も多くなってきた。残されたり、取り壊された家たちに僕は鉱夫の無縁仏を想起させた。ふるさとを離れ、この地に骨を埋めた人々と鉱夫は同じなのではないだろうか。

ちょうど光風台を歩いていたら取り壊されている空き家の前を通った。作業員の方にお願いして、コンクリートでできた家を礎石の破片をいただくことができた。

僕はコンクリートの礎石に石仏を彫り、鉱夫の無縁仏を供養した老婆にお願いして合わせて祀っていただいた。

ニュータウンと信仰
能勢の地域に何百年と続いてきた様々な信仰も、ニュータウン開発が行われたことで相互に影響を及ぼしながら変容を続けてきた。妙見山とニュータウンをハイキングと様々な催しで結びつける活動「妙見ハイク」は、光風台の住民が立ち上げ25年続き、開催数も280回以上にのぼる。豊能町観光ボランティアガイドも光風台の住民が地域の自然と歴史を調査し、その成果をもとに立ち上がったものである。吉川八幡神社の新しい宮司も旧吉川村の氏子にとどまらず、より広く認知してもらうために、能勢電鉄の車両を社務所に配置したり、御神馬を飼いはじめたり、シンセサイザーを駆使し、現代雅楽の演奏や、小室哲哉のコピーを披露したりしている。満仲が建立し1000年続く高代寺は、光風台の住民が設置したイノシシの罠にかかってしまい、殺処分されそうになったツキノワグマを紆余曲折を経て飼っている。地域住民に「天狗さん」と呼ばれているマルトゥギ藤江さんは、自身を韓国仮面劇における権力者を批判する下僕であるマルトゥギと称し、天狗や渡来人など、いわば古代の移民やマイノリティーたちのお面制作を通して、彼固有の現実を具現化しつつ、地域のボランティア活動に精力的に励んでいる。藤江さんはこの地域における信仰の一番の具現者かもしれないと思う。またニュータウンとは距離が離れているが、花コウ岩に囲まれていることから、豊能町の東側の旧村落には多くの石仏が残されている。その中には、不安定な状勢であった戦国時代の庶民が自身の生前供養のために彫った逆修仏と呼ばれるものもある。高山地区ではキリシタン大名の高山右近の生誕地ということもあり、隣町の茨木では隠れキリシタンの遺物も民家から発見されている。

豊能町のニュータウンは、もともとこの地に根付いていた信仰と様々なレベルで交感し続けている。地域に根付いた信仰もニュータウンとの関係の中で変化をし続け、豊能のニュータウン自体も単なるニュータウンではなく、戦後の個人主義の楽園に単純にもとどまらない、いわば「信仰住宅地」と呼べる場所になっていったのではないだろうか。